おかん塾で育てたい、こだわりたいのは、徹底的に本人のやる気を育てる子育てです。
これは、内側からの湧き出るような、闘志、優しさ、思いやる心です。
そもそも、勉強は「お母さんや先生の為でなく、自分がそう思うから、勉強しよう」 という、内発的、自発的な強い思いが無いと、成果はあがりません。
逆に言うと、人は、自分の中からスイッチが入ると、圧倒的な馬力で突き進む力を持っていると思うのです。
誰もが、そんな経験を一度は持っているのではないでしょうか。
ニンジンをぶら下げらても人はマジにはなれない
私の経験でも、人生の中で一番勉強に身が入ったのは、先生や親からプレッシャーをかけられた時ではありませんでした。
そういう時は、「やらねば」と思っていても、なかなか集中できず、勉強が億劫になったりしたものです。
私は、「マジで点を取りたい」と思ったことが一度だけありました。それは、中学2年生の2学期の理科のテストが返ってきた時です。当時のクラスメイトの女の子が、わたしのテストの点数を見に来たのです。
わたしの理科の点数を見て、静かに席に返った姿を見て、彼女が密かに私をライバル視していた事を知りました。私は驚きましたが、悪い気はしませんでした。「負けられない」闘志がムクムク沸き立ちました。
その後のテストは自分でも驚くほど集中して勉強して、「教科書も丸ごと覚えちゃおう」これくらいの勢いで、勉強しました。
自分でもビックリするくらいの「やる気」が出て、本当に不思議なくらいでした。もちろん、テストは90点台。でも、残念ながら、この頑張りは、一回だけに終わってしまいました。
ニンジンをぶら下げらての「やる気」は、長続きしないのです。
ただ、勉強嫌いの私が、あの時なぜ、あれほど「本気モード」に入れたのかな、と、自分で検証してみました。すると、友達がわたしの「自尊心」「プライド」を大きく高めてくれたので、とても気持ちが良かったのだと思い至りました。
親や先生が叱咤激励して、わたしのモチベーションをどんなに高めようとしても、あれ程のやる気にならなかっただろうなと、思います。
実際、わたしは先生から褒められたことが、プレッシャーになり、それ以降ポスターが描けなくなったことがありました。
中1の時に描いた、選挙ポスター「評価」されたことで、自分に期待をかけて、ついにはできなくなってしまったのです。
子どもは「評価」されて、「評価」が欲しくなると、身動きが取れなくなると、私は自分の身をもって経験しました。
「評価」は麻薬のようなものだなあと思います。
あまりに快感すぎて、また欲しくなります。すると「評価」されることを求めてしまい、「内的なやる気」がなし崩しになってしまうのです。
私たちは、「評価されないとやらない子ども」を育ててしまっていないか、もう一度考えてみる時だと思います。
本当に親がめざすべきことは
誰でも自分の行動は自分で決めたいと思っています。自分の行動を規制されることは嫌なのです。
自分で決めて、自分がブレずに行動出来ると、とても気持ちがいいし、本当の実力を発揮しやすくなります。
勉強する意欲は、元々すべての子どもが持っています。本人の内にある「やりたい気持ち」に火が付くと、子どもは本当にスゴイ馬力を発揮しますからね。
人が育つ法則はとてもシンプル。
で、問題は、それを子育ての「現場」にどう落とし込むかです。
子どもが自己進化する時の3つのポイント
私の過去のピンチと切り抜けた時の状況を思い起こしてみた結果、次の3つの条件が当てはまっている時、私は自分から動きたいと思いました。あくまでも私の例なのですが、皆さんはどうかな?
① 問題が問題となっている
これは、つまり、
と本気で思っている時。
人はホンキで困った時に動き出す、というものです。が、逆に言うと、本気で困っていないのに、何とかしようという気力は湧き出てくるか?ということです。
親が子どもの問題を肩代わりして解決しない方がいいのは、「自分しかこの状況を何とかする人がいない」という事を子どもがいつまでも自覚できないからです。
②自分の状況を冷静に見つめられる時
私は、自分がイライラしたり困ったりした時は、かなり感情的になり、うろたえてしまいました。そもそもメンヘラな私は、とっさにもう、これ以上傷つきたくないと、自分を守るために、防衛的になるのです。
人は、責められたり非難、否定されると、これ以上自分が傷つかないことや、その為に相手を攻撃する事に必死になり、物事を冷静にみることができません。必死のパッチで余裕がなくなり、どうすれば、身の安全が確保できるか?と、そのことばかりに頭が使わてしまうのは「自然の摂理」のようです。
反対に、私が問題を活かしていこう、前向きになろう!と思えた時とは「傷つけられる可能性がない」と思えた時だと気づきました。
問題を持ったことを、責められない、傷つけられない、絶対に大丈夫だと思えて、あらゆる状況を頭の中でシミュレーションし、自分が責められる可能性が無くなった時、私は、はじめて、安心することを自分に許可できました。
そして、その後、ゆっくりと、状況を冷静に分析していったように思います。
自分の体験を冷静に振り返った時、人は、自分が責められない完全に安心だと感じることはとても大切だと思えました。
③頑張ればなんとかなりそうだと可能性が見いだせる時
子どもの為につくりたい安心の場
私は、自分の子どもには、彼らの人生におけるあらゆる問題をバネにして、成長して言って欲しいと思っていました。そして、自分の経験を元にして、じゃあどうしたら、自分の問題をバネにしてもらえるのか?それを必死で考えて、その為に、親としてどうしたらいいか、どうして欲しかったかを導き出してきたつもりです。
やったことは、
①自分の問題を、問題と認識してもらうために➡彼らの問題を、私が取り上げない
②安心安全で、冷静に自分を振り返ることができるように➡彼らの問題を、私が責めない
ということ。
そして、日常の中でのどうやって行えばいいか?の、子育ての生活に「会話」として落とし込む作業の連続の毎日でした。
それが、実際に100%行えたのか?と言われれば、そんなことはありません。自分でもできていないこともありましたし、感情的に、吠えたりしました。
でも、理論や原理がわかっていると、たとえ「失敗」したり、子どもの関係が悪くなりかけても、なぜ、子どもの機嫌がわるくなっているのか?の理由が具体的にわかったので、それは私にとってはとても助かる事でした。
原理原則を知っているから、軌道修正がすぐにできる
まっ平な地面の中に、チューリップの球根が埋まっている場所が分かっていると、なるべく、踏まないように工夫できます。
また、たとえ踏んでしまっても、後でお手当てもできるのです。
今の子育ての状況は「どこにチューリップの球根が植わっているのかもわからない」そんな状態で、やみくもに行き当たりばったりの対応をしていることはないでしょうか。
私が自分の子育てを振りかえった時も、それは、いつ、破裂するのかもわからない、ロシアンルーレットみたいな、子育てだったと思うのです。
これは「知らない」ということだけなのですが、それがあまりにストレスが多いことでした。
知ることで「踏むといけない場所」が分かっていると、たとえ、球根をフンずけちゃっても、すぐにお手当てができますから、気分がとてもラクになりました。
踏んでいることがわからないまま、なんでこんな風になるのかな????と思い悩んでいる方が、ずっとツライと思うのです。