今のお母さんたちって、
子どもの教育に対する意識が、とても高いと思いませんか。
我が子にとって、できるだけいい環境を用意したい。
苦しむ姿は、できれば見たくない。
できることは、やってあげたい。
遠回りせず、幸せに育ってほしい。
そんなふうに思わない親はいませんよね。だって、可愛い我が子ですもの。
だから、多くのお母さんが「学ぼう」とします。
SNSを開き、記事を読み、動画を見て、よりよい関わり方を探し続けています。
けれど——
情報に触れれば触れるほど、少しずつ、心がざわついてくることはありませんか。
「子どもの話を聞きましょう」
「怒るのではなく、叱りましょう」
「でも、時には怒ってもいい」
「ママ自身も大切に」
「ありのままを受け入れて」
「自立の芽をつまないで」
どれも間違っていない。
むしろ、正しいことばかり。
それなのに、「じゃあ、今日のこの場面では?」と考えた瞬間、頭が止まってしまう。
疲れて帰ってきた子に、声をかけるべきか。
約束を破ったとき、どこまで踏み込むのか。
反発されたとき、引くのか、押すのか。
甘えさせたほうがいいのか。
きちんと叱ったほうがいいのか。
そのたびに、「これで合っているのかな」と、自分の判断に自信が持てなくなる。
甘すぎたら、将来が心配になる。
厳しすぎたら、心を傷つけてしまいそうで怖くなる。
そして、また情報を探す。
探せば探すほど、正解は増えて、なぜか、身動きが取れなくなっていく。
もしかすると今の子育ては、
“選択肢が多すぎる世界”の中で、一人で決断し続けることを求められているのかもしれません。
投げ出したくなる瞬間と、
「投げ出すわけにはいかない」という理性のあいだで、
心が引き裂かれるような感覚。
それほどまでに、
母親という役割は、真剣で、重たい…ですよね。。
でもそれは、
あなたが無責任だからでも、迷っているからでもなくて、子どもの人生に、本気で向き合っている証なのだと思うのです。
かつての私も、そうでした。
うまくいかないたびに、やり方を変えて、また試して、気づけば「日替わりメニュー」みたいに、いつも違う母親を演じていました。
強く出てみたり、
包み込んでみたり。
すると、子どもは混乱し、明らかに私の機嫌を伺っている様子がみえて、私自身も「私は何がしたいんだろう」と、わからなくなっていった。
そのとき、
偶然「親業訓練」に出会って、気づいたのです。
足りなかったのは、心が健全に育つ「正しい概念」と、「具体的なやり方」を学べる場でした。
感覚や善意、
曖昧な抽象論だけでは、子育ては続けられません。
人の心の育ち方には、
ちゃんとした仕組みがありました。
そこに立ち戻れる軸さえあれば、
迷い続けなくていい。
親だって、学びたい。
親業を広げるよろこび
親業に出会ったとき、「これだ」と直感しました。一つの“正解”がない子育ての世界で、母親たちの悩みを紐解く確かな道具になる。そう確信しましたし、同時に自分自身の理想の子育ても探求できる、と強く惹かれました。二年後、念願のインストラクターとなり、周囲の友人にも「きっと役に立つのに」と思い切って声をかけてみました。ところが、受講には至りません。親業の価値をうまく伝えられない。そんなもどかしさを抱えていた