ある日、ドラマを観ていた時、
出産シーンで、
「お母さんの命が危ない???」そんな緊迫したシーンがありました。
子どもを産むって、自分の命と引き換えにするくらいの大変な仕事。
そして、
一生懸命、呼び戻すお医者さんや看護師さんたち。。
「戻ってこい~~~」
だったっけな。
めでたく、お母さんはあの世(?)から戻ってこられたんですが、それを観ていながら、
「ああ、私って、こんなに呼んでもらえるのかな?」
って、思ってしまいました。
疑問は、すぐに確かめるタイプです。
すぐに夫と二男(当時高3)に聞いてみました。
ジーーーーー(夫の顔をみながら)
「あのさ、私が死にそうになったら、こんなに呼んでもらえるのかな?」
ドラマを観ながら、キョトンとしている(?)夫。
そこには、
・・・(ちょっと、間があって)
「サヨナラ~~」
「バイバイ~」
「ありがとう!」
え~~~(:_;)
それ~~~~??(:_;)(:_;)
(←マサカや~)
でも、二人とも、
ムッチャ笑顔!
まあ、そうだよね~
お別れのコトバ以外に、感謝のコトバがあったのが、せめてもの救いだわ。
まあね、
ムリに引き止められなくても、いいか。
そこで、ビックリしたのが
まったく、淋しくない、わたし。。
彼らの言葉が冗談にしても、あまりにも淋しくなかったので、そのことに、自分で驚いていました。
それで、そのことについて、自分を観察してみました。
(こういう、ちょっとした気持ちの変化から、自分の変化を読み取るのが私の趣味)
もうね、これは、
「お役目は果たした」
という私の中の満足感に浸っていたのかな?って思いました。
母親を必要としていない、
母親がなくても生きていける、
なんて、たくましいんだろう~
うるうる
ああ感動。
こういう子育てをしたいと明確な目標をもっていたので、それは、自分の思い通りになったという満足な気持でもあったんだと思います。
ああ、私は、もう、自分の人生でやりたいことはやったな。
思い残すことは、ないな。。
「さよなら~」
なんて言われると「おいおい!」と突っ込みたくなりますが、それよりも感動の気持ちの方が大きかったんだと思う。
自分の子どもと、
こんな微妙でしゃれになるかならないかスレスレの話しがいつでもできるのは、
お互いに、別の人格であると、認めているからだと思います。
非難されることがないし、
非難されても、ちゃんと言い返せる自信があるから。
彼らは、かなり、大人です。
そして、私も大人になったかな。。。
と思えたことが、きっと嬉しいんだと思う。
共依存の両親に育ち、
親子間の粘着体質にガッチガチに縛られていた私が、ここまであっさり体質になれた。
他人の評価に依らなくても、一人で立っていられるようにサラリと流せるようになれた。
彼らと「対等」になれた気がしました。
それは、
どんな風に思われても、それで、私の価値が下がることがないと思えるようになれたし、
子どもから何を言われても、私は私をいじめなくなったから。
うふ。
がんばった私。
奇跡みたい。
本当に欲しかったものが手に入ったので、次の目標に向かっていかなければいけないのだけれど、
家族の幸せな笑顔以上に、欲しいものが見つからないのが、今の悩み。
私は男の子を3人育てましたが、それぞれに「むずかしさ」を感じたなと振り返ることがあります。
何が「むずかしさ」だったかというと、結局は「意志疎通」が上手くできなかったということです。
子どもって、コトバに出すことと、本当の問題がズレていることがあるようなのですが、私には何がそんなにイヤなのか?サッパリわかりませんでした。
幼稚園で体操服で行きたくないという子ども
我が家の子ども達は私立の3年保育の幼稚園に通っていました。
登園したらすぐに制服から体操服に着替えます。ただし、新入園児は着替え時間を短縮するため、4月中は体操服で登園することになっていました。
ですが、二男は 「体操服で行きたくない」 と言うのです。2つ年上の年長組の兄のように「制服で登園する」 と言います。
これには困りました。
担任の先生が、二男のために、通学ノートに体操服のシールを貼るよう工夫してくれました。私は、先生へ申し訳ない気持ちが溢れてきましたが、二男の気持ちはよくわかりませんでした。
毎朝、「なんで制服はダメなの?」と、メソメソ泣く二男の不満を聞かされ続けて、母親としてどうすればいいかわからず、ヘロヘロになってました。
「いっそ、制服で 通わせようか???
そんなことも真剣に考えました。
そして、待ちに待った5月のGW明けの「
これで文句はないだろう!と 思いきや、予想に反し、二男の機嫌はよくならなかったんですね。グズグズと、今度は別の理由を言い始めました・・。(どんな理由だったか、もう忘れましたけど。。)
え???
よくわからないことは原因探しが始まる
「男の子やろっ しっかりせい 」
一発叩いたくなるような衝動を持つと同時に、自分が母親失格であると責められているような、すごい苦しさを抱えました。でも、今更、幼稚園を辞めさすわけにもいきません。
「これでいいのかな?」
不機嫌な二男に、どう対応したらいいのかわからないまま、
「これでいいんだ・・」
自分にいっぱい言い訳しながら、 幼稚園に 通わせていました。
どうしたらいいか?は「その場しのぎ」になる
こんな時はたいてい、
幼稚園には行かせない方がいい とか、
親としてどうすればいいのか?って、そんな風に考えがちです。私も
でも、本当の問題は、それでは解決しないのです。
だけど、じゃあ根本解決のためには一体どうしたらいいのかってことを、私たちはほとんど知らないまま母親になるんじゃないかなと思うのです。
もちろんわたしも、具体的にどうしたらいいのか、全くわかりませんでした。でも、子どものどこか不機嫌だとはわかるので、とても後味が悪いのです。
で、結果的に悪循環が繰り返しになってしまったような気がします。
大切なのは「行動」よりも「ココロ」に注目すること
「なんで幼稚園に行きたくないの?」
それからも、彼らの心を常に満たしてあげている方法をおうちで実践することができたので、
二男への心配な気持ちをどう対処したらいいのか随分悩んだ私でしたけど、二男も私も「ヘンじゃない」とわかり、それだけですごく自信が持てました。
あの時、知らないままではどうなっていたかと思うと、正直怖い。
きっと、二男を理解することができず、かといって自信も持ちきれず、悪い方へ悪い方へ思い込んでいくだけの状態がつづいていたのかもしれません。
親がラクになると子どももラクになる
親業を学び出して、むしろ、言いたいことを言うようになったので、時々はカミナリ〜〜みたいにムッチャ怒る事もあって、優しくなくなったんですが(笑)。
母親のコトバって、ものすっごく影響力があるんだなあって、感じました。
子どもの問題行動は大切なココロのSOSだから
その後、元気に幼稚園に登園するようになった二男ですが、実はもう一度、行き渋る時期がありました。
その時は慌てずに対応することができました。
次の日は二男は黙って通園しました。
人は、
大好きな人から、人として尊重され、信頼されていると感じると、
信頼に応えられる自分でいたいと思う気持ちが育つ。
大好きな人と肩を並べられる「対等な自分」でいたいし、
認められると超嬉しい!
借りも作ったままではいたくないし、心苦しく思う。
養育・保護されるべき「弱い存在」ではいたくなくて、
大人として自立できる自分を、好きになる。
自分の問題を自分で解決できることは「自立」への「自信」になる。
人としての誇り。
こういうのを、自尊心って言うのかな?