限界突破(げんかいとっぱ)己の限界を超えること。フィクションならともかく現実には、一般人の限界を超越したとしても、人間としての限界を超えることはできない(その段階が新たな「限界」になるので)ので、どちらかというと「思い込みによる限界を気合などで突破する」という感じになる。
よって、おそらく「リミッター解除」をイメージすればだいたい合っていると思われる。ピクシブ百科事典より引用
せっかく、困っているんだから、それはその人に与えられた成長の機会です。
人は困ることがないと、ホンキになりません。
子どもは、ホンキになった時はどうすればいいか?必死のパッチで考えます。
そして、自分で解決策をひねり出して(笑)、
乗り越えられた時の達成感は格別なのです。
親が「試練」を与えなくても、
鍛えなくても、
放っておいても、
子どもの人生には問題が必ず起こります。
子どもの成長の道って、一直線にはいかなくって、
一見遠回りのように見えるけど、
そんなもんでいいんじゃないかって、
いやいや、ホントはそっちの方が経験が豊かになってるって、
私は、ゴードンメソッドを学ぶうちに、そう思えるように自然になっていったんですね。
二男がまだとても小さかった時、当時3歳ごろだったと思います。私は彼を怒り過ぎて大失敗をしたことがあります。
二男は「ウソ」 をついたんです。
どんな「ウソ」だったのか、内容は全く覚えていないのですが、当時の私は、彼が平気で「嘘八百」を並べ立てたように感じました。それでビックリして、本当にショック〜でした。
どうしたらいいんだろう??ホントに迷いました。
尊敬する夫の父親にもそのことを相談したりしました。義父は「大丈夫。気にしなくてもいいよ」と言ってくれましたが、私はそれではおさまらなかったんですね。
ウソはダメ
ゼッタイにダメ
叱らなくっちゃ
諭さなくっちゃ
ゼッタイにウソをつかない子にしなくっちゃ
そうしないと、彼がウソつき少年呼ばわりされる。。。。
当時の二男は、現実に起こっている「事実」とは「違う(ように感じる)」ことを言うことが時々ありました。
私は、「それって、ウソやん?」としか思えなかったんです。そして、「そんな事実と違うことを平気で口にする息子」が、すご〜く気になっていました。
どうすればいいかを考えあぐねた私は、それでもうーんと考えて、もう絶対にウソをつかないように、こんなことを言うことにしました。
ちょっとキツいけど、
願いをこめて。
「あのね、ウソをつくとね、天国には行けないのよ。地獄に行くの。地獄って、閻魔さんがいる恐ろしいところなのよ。」
子どものこころに深く刻まれる親の説教
で、それを猛烈に後悔することになったのは、二男と三男が遊んでいる時の会話を聞いた時です。
その後日、1ヶ月後くらい経った頃かな?
偶然、会話が耳に入ってきたのです。
次男「あんな、お父さんとお母さんを頼むで」
三男「・・・・」
次男「僕はな、死んだら天国にいかれへんから。」
三男「・・・・」
次男「僕は地獄にいくんや・・」
え?
なに言ってんの??
意味がよくわからないくらいショックでした。
次男は、死んでも天国に行かれないそうです。
、、、、って
なんで? なんでそんなこと言うの?
わたしが言った一言?
怒ったことも忘れているわたしなのに、ずっと覚えている次男。
天国に行くために「うそをつかないで」と言いたかったのに、伝わってない んだ。。。
自分の意図は全く伝わっていない。それどころか、私のコトバは二男の小さい胸を痛めていたのかと思うと、本当に可哀想なことをしちゃったとものすごく申し訳なく思いました。
あわててフォローしました。が、どこまで通じているのか。それもあやしいもんですね。。
丁度いい怒り方って、難しいなと実感した出来事でした。
その後、私は親業訓練と出会いました。
叱り方やしつけで悩む必要は全くないんだと、実感することになります。
幼い彼には、彼から見たこの世界の真実があったはず、、
←なんて思えるようになったなんて、それは私の成長(笑)
母親って若いし、迷うし、経験も少ない。
だけど、子どもの為を思うお母さんの気持ちは若くても経験が浅くても、変わらないとも思うのです。
大切なコトは、その想いがちゃんと伝わってるかな、ということです。
なぜなら、親の想いがストレートに伝わるだけで、子どもは自ら考えて自分を成長させていく、人にはそんな可能性が存分に備わっているからです。
私は、子どもを授かり、3人目ができてからしばらくはずっとイライラしてて、それが自分でもすごくイヤでした。
でも、よく考えてみると、それって自分で自分の首を絞めてたのかも?という事に気づいたのです。
自分で「母親のハードル」を上げて、それを「クリア」できない自分にイライラしているのかも?と気づいた時、自分の中での価値感の崩壊が起こって軽くショックでしたが、それならば、ムダな努力はしなくていいんじゃないか?と切り替えて、自分の母親のハードルをとことん下げてみることにしました。
つまり、「当たり前にやるよね〜」のレベルを見直したんです。
小学校時代、週末の少年野球に持っていく水筒も、自分でやかんに麦茶を沸かして、自分で入れていくのを「当たり前」にしました。
そうすると、たまに私が入れてあげたら、「ありがとう」って言いました。これって、他の家庭では当然のことかもしれませんが(笑)
そうなんです。
ママが何でもやってあげたら、やってあげるのが「当たり前」になってしまいます。わたしはそれが嫌だったのです。
だから、私がやらないで、子どもが自分のお茶を淹れていくのを「当たり前」にすると、子どもは自分でやっていきました。自分の事だから自分でやるのは当然。何の疑いも持ちませんでしたよ。
もちろん、状況によりますが、こんな風に接してみると、実は子どもにできることってたくさんありました。
子育ては親の線引き次第だと気づく
小さい時には「当たり前」にお世話をしてあげられたことが、成長と共に、負担になっていくことって、ありますね。
「いつまで世話を焼かなきゃいけないの〜」
「いい加減、このくらいやってくれたらいいのに」
なんて、小言を言ってしまうことはありませんか?
ただ、それらは今までママが”普通”にやってきたことなんですよね。でも、成長と共に状況が変わり、今まで”普通”にできていたことが、急に負担に感じたりするのだと思うのです。
で、子どもの立場になると、きっと同じことをしている(あるいはしていない)のに、突然ママの機嫌が悪くなる・・・というわけなんです。
わたしは、もともと母性が少ない(?)のか、あまり世話を焼けないタイプ。というか、子どもがダラダラしてるのに、自分だけが、セカセカ働いているのは、ゼッタイ無理。
すぐに機嫌がすぐに悪くなるタイプだと気づいたので、そこをサッサと認めて、子どもにしてあげる「親としての当たり前の基準」を下げることにしました。
自分のことは、自分でする。
自分で出来ないことはお母さんがしてあげる。
極力、何もしない。
エヘへ
そうしたらね、マラソン大会につかったハチマキのアイロン掛けも、いそいそとやっていたんですよね。
その姿を見た時は、少しビックリしましたが、まあ、できるもんです。
その時の私がちょっと感じたモヤモヤは「アイロン掛けは親がする」というのも、自分の思い込みと、それをしない「後ろめたさ」だったのだと思います。(←アイロンがけはお母さんがやるよ〜とつい言わないことに必死)
要するに、親が子どもにしてあげる「当たり前」の基準って、親が自由に決められるのだと実感した瞬間でした。
それならば、「わたしばっかり!!」と家族に言う前に、自分がどうやったら機嫌よくいられるかの「基準」を、ちゃんと示してあげることが、家族の平和に大きくかかわることが腑に落ちたんですね。
ココは大きな転機でした。
「母親業」は9時に閉店することにきめる
自分が楽しくいられるように、自分のコトぐらい、自分で 責任もって 機嫌よくしていたい。