私の母は愛情深い人で、でもその愛し方がとても相手に伝わらなくて、誤解ばかりされていました。
私がコミュニケーションの勉強を始めたのは、きっと母のような誤解される愛し方をなんとかしたかったからです。
でもそれは、なかなか本人には伝えられなくて、私はいつももどかしさと虚しさとやるせなさ、自分の無力感を感じていました。
自分にできる事をアレコレとやる中で、これも母の問題であり人生、学びなんだと、私の自由にならない事だと思うようになりました。
自分の思う理想の母に、母を動かそうと思っていた、あざとい自分がいたのかな。
どんなにつらそうに見えても、これは、母が選んだ母の人生。
私の自由にはならないと、思えた時、即ち「親子だけど他人だし、夫婦の問題はパスするわ」と、ちょっと冷たくなった時、はじめて母の話を最後まで聞けた私がいました。
人には、
自由になる範囲と
自由になりならない範囲があります
人の心は自由になりません。
自分の心だって、自由にならないんだから、なんとかしようと思う事がおこがましいこと。。なんですよね。
ここを領域侵害してしまうことのは、愛あるが故の辛さなのかもしれません。
そして、心は愛を求めているんですね。